その日はロッテ戦だった。ロッテはプロ2年目の笠原がマウンドに上がった。高卒ドラフト1位ということで注目されていた投手だったので名前は知っていた。どんな球を投げるのか期待して見ていた。二軍のピッチャーたちの中で彼の投げるボールには目を見張るものがあった。躍動感あふれるフォームから投げ込む切れと力のあるスピードボールに彼の稀なる素質を感じさせられた。ただし、コントロールは良くなかった。四球を連発し、ランナーを溜めてはヒットを打たれて失点を重ねたように覚えている。自滅である。感情のコントロールも侭ならないようだった。降板した後ベンチ前でコーチに何か言われ不貞腐れていた姿が記憶にある。彼の投げるボールについての評価と自滅してしまった過程への感想は一緒に観戦した友人と一致した。
「もったいない」
調べてみたら笠原はその後一軍で1勝もできず引退していた。
何故こんなことを思い出して書いているのかと言うと、今見ている巨人ー広島戦で一軍戦初先発をしているジャイアンツのピッチャーが、テレビ画面の左上のテロップの紹介で笠原投手の息子だと偶然知ったからである。
さて、笠原Jr.の印象はというと、もう少しスピードが出てコントロールが良くなれば(そういう投手は数多い)...と言う感じだ。今日は3失点して4回で降板してしまったが、途中石井琢朗(広島)との対戦もあった。
石井が横浜に入団したのは調べると1989年、笠原がロッテに入団した4年後である。その頃平塚球場での二軍戦を見に行くとほとんど毎試合のように石井が登板していた。石井琢朗は投手として横浜に入団したのである。
「あ〜また石井か、おもしろくないなぁー」
石井の投球を一、二度見てからは、彼がマウンドに上がる度に私はため息をついた。
彼の持ち玉は、サイドスローから投げる最速でも140キロに及ばないストレートと特徴に乏しい横の変化球くらいであったが、コントロールは悪くないため二軍戦ではそこそこ通用してしまう。だが、見ていても一軍で活躍できる将来性はひとかけらも感じられなかった。横浜は石井のバッティングセンスと俊足を買いドラフト外で獲得したのだった。彼がピッチャーを諦めてくれるのを待っていたのだ。そんな事情は知らなかったので打席に立った彼が鋭いあたりのクリーンヒットを放ったときには驚いたものだ。
数年後、球団の思惑通り石井は打者に転向した。スカウトの目は正しかった。石井は素質を開花させ打者として大成功を収めることになる。彼は間違いなく1998年の横浜の日本一に欠かせない存在であった。石井投手、実は一軍で1勝している。「1勝したら投手を辞める」と決めていたようだ。息の長い選手である。
Hiratsuka Stadium