2011/08/28

Seeing Camaron

Whom or what I saw is not a famoous flamenco cantaor, or singer in Spain, nor is a sweet confectionary of France made with egg whites, icing sugar, granulated sugar, almond powder, or ground almond, and food coloring. Never.



Camarón de la Isla


Macaron de Francia


Hokaron by LOTTE


A couple of days ago, I happened to see the handsome guy, whom I call Camaron here, at a Shinkansen station. I could easily recognize him because he was very famous and his face and voice had been familiar even to me, who is not so much interested in show biz. He was just being seen off by some men at the ticket gate. He was polite enough to bow several times to them with saying "Thank you very much. Good bye.", looking back to the men. Once at the gate, 2nd time after passing the gate, the last one was before stepping on an escalator to the platform. He repeated until they were out of his sight. Watching his polite attitude to the men and also his gentle behavior toward his female attendant. I was convinced that he was a good man. He would be much more familiar next time I see his face on TV. He put on the dark glasses before reaching the platform. He looked cooler in them, and handsome as well.
Can you guess who?


Supertrain carry Superstar 
Destination was....a big city in central Japan

2011/08/26

ウドンタニの誘惑

ウドンタニ Udonthani はタイ東北部の町である。ここはうどんの名産地で、暑い季節には、その渓谷の急流を利用した大がかりな流しうどんを目玉とする様々な納涼イベントが開催され訪れる観光客の目を楽しませてくれる、という話は聞いたことがありません。この町はラオスとの国境に近く、ここからラオスの首都ビエンチャンまで国際線バスが運航している。昼過ぎにそのバスでビエンチャンから戻った。バンコクに戻るフライトまでかなり時間があるので、すぐに空港へ行かずに街中でタイ式マッサージをするか、髪を切りに行くかして時間をつぶすことを考えていた。

バスターミナルに近いところに、マッサージ屋と美容室が数軒ずつある。マッサージは昨日もやったし、できれば帰国前に物価の安いタイで髪を切って帰りたいと思っていたので、とりあえず美容室に入った。感じも悪くなく値段も手ごろだったのでそこに決める。美容室のお姉さんは背が高めでスタイルも良いきれいな人だった。彼女は十分通じる英語を話した。

ガイドブックによると、ベトナム戦争の時に、ここには米軍の秘密基地があったらしい。当時、町には多くのバーやレストランがあり、アメリカ軍兵士でに賑っていたようだ。終戦後、その店もアメリカ人も姿を消したとのこと。美容室の隣に二軒アメリカン風のレストランがあり、メニューにはステーキやフィッシュ&チップスなどの洋食が名を連ねていた。これらの店はその時の名残なのか。その辺りではご年配の白人も数人見かけた。もしかしたら終戦後もこちらに残った方々かもしれない。

お姉さんは私の髪をカットしながらいろいろ話しかけてきた。日本語の単語もいくつか知っている。

「あなた、髪の毛少ないネ。」
(百も承知だ)
「Sooner or later ですよ。仕方ありません。」

「OKAMAってわかる?」
「わかりますけど。」
「タイにはオカマがいっぱいいるの。」
「そうらしいですね。」
「オカマ、好きですか?あたしオカマなの。」
(エッ?)
「オカマ好きですか?」
「オカマは好きじゃあないけれどあなたのことは嫌いじゃないですよ。」

カミングアウトされるまでまったく気付かなかったけど、言われてみると確かにそう見える。でも言ってくれなければ最後まで女性だと疑わなかっただろう。その後はお互いの間にほとんど会話もなく時間が過ぎ去った。カットの仕上がりは上々だった。

美容室を出たあと隣のアメリカン風のレストランに入った。道路に面したテラスの席に座る。腹ごしらえに焼きそばを食べたがこれは最高においしかった。そこのおばちゃんに、タイ語のありがとう「コップンカー」の発音を笑われ直された。「コップンカーP」とPで終わるとのこと。おばちゃんは変な発音をする人を発見した感動を他の人と共有したかったのだろう。「ねぇ、来て御覧。この人、コップンカーだってぇ。カーって伸ばしてるよ。」と店の中から別の店員まで呼んで私を晒し者にしてくれた。おかげで今では完璧だよ。コップンカー。いい時間になったのでトゥクトゥクで空港に向かった。


ウドンタニのバスターミナル ラオス行きのバス

アメリカン風のレストランが二軒並ぶ
左の方に入った

焼きそばはどこの国で食べても無難です 

ベトナム・ラオス・タイはコーヒーが美味しい

頼むぞ運ちゃん コップンカー

 
スリルあったぜ コップンカー


2011/08/23

ポルトガルのお寿司屋さん

ポルトガルという国をご存知でしょうか?
ポルトガルのポルトという町の名前を聞いたことがありますか?
ポルトガルのポルトという町にある「巨大」という名前の寿司屋に入ったことがありますか? ないよね。だよね~。

ポルトガルはスペインの西にある国。ポルトは北部にあるポルトガル第二の都市。ドウロ川の下流にある坂の多い素敵な町だ。歴史地区は世界遺産に登録されている。ポルトガル語ではPorto、英語だとOporto(おポルト)という。英国人は日本人同様に品があるので、日本語の「お仕事」「お寿司」「お受験」「オカマ」「お下品」…のように、どんな言葉でも「お」を付けることで丁寧に表現しようとする習慣があるからです。(注:ネットに書いてあることを全て鵜呑みにしてはいけないよ) それは置いといて…Portoは「港」の意味、昔から港湾都市として栄えていたらしい。ここは甘~いポルトワインで有名だ。子どものころ、日本でも「赤玉ポートワイン」というのがあり、テレビでよくコマーシャルが流れていたが、そのポルト(ポート)ワインの本家・本元である。川の側にはたくさんのボデガ(醸造所)があり、見学すると試飲ができる。ボデガのガイドさんの話では、ポルトのボデガのほとんどを(すべてだったかな)イギリス人が所有しているそうだ。


橋の上には

電車が走っていた

夜 行ってみた

ボデガで試飲 好甜!


ドウロ河(川を河に変えます)の河畔には美しい橋を見上げることができる地区がある。そこにはレストランやバーがたくさん集まり、地元の人や観光客で賑っていた。通りを歩いていると漢字で「巨大」と書かれた看板を発見。中に入るとお寿司屋さんだった。二人のブラジル人男性が働いていた。ブラジルの言葉はポルトガル語なので、ポルトガルにはブラジル人も多くいるようだ。お二人は日本人の経営者に調理を教わったという。日本語も少し話せる。寿司の値段と訊くとちょっと高かった。「10ユーロしかないのですが…」と言うとその値段で握ってくれた。結構本格的で美味しかった。


もれなくキムチも付いてくるよ


お店の名前の由来についてお二人はご存知でなかった。飲食店の名前に「巨大」というのはどうなのだろうか。名付け親がそう名付けた理由を推測してみた。お次の5つのいずれかであろう。

1.「兄弟」としたかったが何らかの理由で(漢字が分からず等)アルファベットで同じく kyodai と綴られる「巨大」になってしまった。
2.はじめ「兄弟」にしようと思ったが「兄弟」と「巨大」が、音が似ていてアルファベットで同綴なのを利用してしゃれてみた。
3.単純に素敵な名前だと思った。
4.開店当初、寿司のネタを「巨大」にしようと考えていた。
5.のちに誰かが自分のブログにこのことを取り上げてくれることをお見通しだった。


夕暮れ時のドウロ河畔


ポルトには「哀愁」という言葉がよく似合う

古くて静かな街

またいつか秋に行ってみたい


あの娘と                           
                                                                             nanchatte

2011/08/21

格安航空会社

LCC=Low Cost Carrier=格安航空会社、という言葉が最近日本でもちらほら聞かれるようになった。ヨーロッパではかなり前からあったが、最近世界中でその数が際立って増えてきている。空港には、見慣れない、新鮮なデザイン・色でペイントされた飛行機がたくさん並び、見ているだけでとても楽しい。

安い運賃=Low Costは当然コスト削減の努力によって実現している。知るところによれば、人件費の削減、採算の取れる路線・便数の厳選、着陸料が安いマイナーな空港への就航、空港の中でも場所が不便なターミナルの使用⇒搭乗までバス&タラップ、座席数の増加、機内サービス(食事、飲み物、エンターテインメントなど)や預ける荷物の有料化、などによりコストを削減している。私は安全面に不安が無く、シートの前後の間隔(ピッチ)が、我慢できないほど狭くない(短時間のフライトなら我慢する)限りは、基本的に運賃の安い会社を利用している。ギターを持っていくときは、機内持ち込みできるかどうかが判断基準となる。この話はまた別の機会にしましょう。

LCCのチケットはその会社のウェブページで簡単に予約できるので非常に便利である。運賃は、早く予約すればより安くなる。ヨーロッパ内のフライトは、日本の国内線程度の距離である。目的地が遠くなくて、2、3週間くらい前に予約すれば、片道2、3千円くらいである。千円以下のチケットもよく見る。カラクリはわからないが0ユーロ=無料?なんていうフライトもあった。ど、どうなっているんだ?

さて、LCCは上記のように着陸料の安い空港を使用していることがあるが、その一例を。ロンドンのメインの空港はヒースロー空港である。でもそれ以外に2つの空港がある。こちらの方が着陸料が安いのである。パリ、ローマ、バルセロナなどの大都市も同様に複数の空港を持ち、LCCはマイナーな方に就航していることが多い。利用者にとっては一般的に、乗り継ぎが面倒(その都市の別の空港まで移動が必要な場合がある)、空港までのアクセスが悪い(時間・お金がかかる、交通手段が限られる)、という不便が生じる。

着陸料の安い地方空港に就航する国際線フライトの出現は面白い現象も引き起こしている。スペインのへレス・デ・ラ・フロンテーラはフラメンコで有名ではあるがとても小さな町である。空港もマイナーである。でも、Vueling (ブエリング航空)というスペインのLCCが、こことロンドンを結ぶフライトを飛ばしているので、この町にはイギリス人が多く訪れる。以前ならマドリッドやバルセロナへ飛び、そこから自分の目的地に鉄道やバスを使って移動するのが一般的だったろう。今はこのように田舎の町へダイレクトにアクセスできるので、意外なところに意外な国の人が多く来たり、長く滞在したりしている。私もLCCの予約のサイトを見ていると、「ここからこんなところに飛んでるんだ~。しかもこんなに安く。」と、行く予定もなかったところに、「行ってみようか。」なんて思っちゃったりする。考えるだけでも胸が躍る。そして、その町のことや空港から市内までのアクセスをネットで調べ始める。そういうノリの人、私以外にもいるんじゃないかな。

中国のハワイと宣伝されている海南島をご存知でしょうか。きれいなビーチがある三亜という都市は、結構前から有名なリゾート地ではあったが、数年前に久しぶりに行った時、街にはロシア語の文字があふれていて驚いた。そう言えば道を歩いていると、西ヨーロッパ人とは少し違う顔立ちの、背も鼻も高くて色白の、近年までほとんで見かける機会がなかったロシア人たちがちらほら、いや結構多いことに気づく。中国のリゾートにあふれるロシア人!?聞けばシベリアのハバロフスクと三亜を結ぶフライトができたとのことだった。(LCCかどうかは分かりません)なるほど納得、オーチン ハラショー!LCCの出現により、今まで、交通アクセスが不便で観光資源も乏しかったところでも、努力そして工夫次第では町の活性化も不可能ではなかろう。茨城空港にも上海の春秋航空が就航したが、多かれ少なかれ良かれ悪かれ、その近辺に変化が見られるかもしれない。


ハワイのLCC その名もgo! 

最近成田に就航 タイのビジネスエアー 

海南島にはロシア語がいっぱい


2011/08/20

大久保彦左衛門の彦

派遣社員としてコールセンターで働いていたことがある。その時の話。

そのコールセンターでは主婦、学生アルバイト、フリーターなど様々な人が働いていた。年齢層は20代から50代くらい、20代が一番多かった。そのときの業務の中で電話をかけてくる人の名前や住所を訊くことが日常的にあった。

「お名前をお願いします。」
「〇〇カズヒコ。カズは平和の和、ヒコは大久保彦左衛門の彦です。」

その電話を受けたのは20代の若者。電話を切った後、暇な時間に訊いてきた。

「大久保彦左衛門、って誰ですか?」
「えっ、知らないの?」
「私も聞いたことなーい。」「僕がこの前受けた人もそう言ってました。」

その名前を知らない若者が多かった(いや、ほとんどだった)のには驚いた。という私も、名前以外のことは、その戦国武将(のちに江戸幕府の旗本、ウィキペディアより)について知っているわけではなく、どんな人かと訊かれても説明できなかったけれど。電話の主の〇彦さんの多く(こちらもある歳以上の方々だろう)が、聞いたこともない、仰々しくて古めかしい同じ名前を口にするのが皆おかしかったのだろう。私自身もその後、同じような電話を受けることがあった。「おっ、きたきた。」私は喜々として、「はい、大久保彦左衛門の彦ですね。(分かりますよ~)」と吹き出しそうになるのをなんとかこらえて答えた。私たちはしばらく彦左衛門の話で盛り上がり、それをきっかけにお互いいろいろな話をするようになった。期間限定の仕事だったのだが、最終日にみんなで集まって打ち上げの飲み会を行うほど仲良くなった。

さて、自分の死後数百年後に、己の名前が「彦」という字の説明としてちょくちょく引き合いに出され、ひいては近年職場の潤滑油にもなっているとは、天下のご意見番、大久保彦左衛門様も想像されなかったであろう。彼の名前を使って説明する人は、その説明が自分の生きた時代でスタンダードだったから、そして、そう言えば相手にわかり易いと考えているからだろう。つまり、ちょっと前まで大久保彦左衛門の名は、多くの日本人にとって親しみのある名前だったと考えられる。電話の主は、その説明で通じなかった時、私同様、さぞ驚いたに違いない。「彦」の漢字の説明として、単に「彦左衛門の彦」というのも多かった。「彦根の彦」というのもたまにあった。「田原俊彦の彦」というのも一回だけあったが、20代の若者の内、彼の名前を知っている人がどれくらいいるだろうか。ところで、ヒコと読む単漢字は「彦」以外に思いつかない。「ヒコは彦ね」で十分わかるし、それが一番多かったかな。

ちょうどそのころ私は三味線の小唄や端唄(はうた)に興味を持ち、よく通勤途中に聴いていた。ある日、たまたま「かんちろりん」という端唄の中に大久保彦左衛門が出てくるのに気づいた時には、意表を突かれ心拍数が急上昇した。(笑) 三味線伴奏の端唄や小唄も粋だ。一度聴かれることをお奨めしたい。ディエゴのギターと三味線伴奏はどこか相通じるところがある。


旗本以下の輿が禁止された際に彦左衛門が
「大だらい」に乗って登城したという逸話の絵

2011/08/16

Ignacio de Amparo 3

ギターをしょったイグナシオが、少し息を切らせながら3階の私の部屋まで上がってくる音が聞こえる。レッスンは毎回「やぁ、寒いな Hola! Muy frio, no?」という挨拶で始まった。早速電熱器を挟んで座りレッスンスタート。1ヶ月の滞在中に週1,2回、計7回のレッスンを受けたが、その日はソレアの最終回、そしてブレリアの1回目だった。まず、今まで習ったファルセータを元にイグナシオが作ってくれたソレアを私が弾き、聴いてもらう。弾き始めてしばらくすると、緊張して指がうまく動かなくなる。人前で弾く時はいつもその傾向がある。余計な力が入ってがちがちだ。そんな私のギターをイグナシオは終始真剣な表情で聴いていた。私も真剣に弾いた。「最後まで止まらず弾き切るぞ」と何とかこらえ演奏終了。疲れた。

「よかったぞMuy bien 、心corazónがこもっていた。それが大切importanteなんだ。」

意外な褒め言葉に素直にうれしくなった。決してうまく弾けたわけではないが、そう言ってもらい確かな達成感があった。そして思った。「イグナシオのように魂のこもった迫力のある演奏がしたい」と。その後、ブレリアの基礎を習いその日のレッスンは終わった。つづく


Muy Bueno! Gracias, Ignacio.


2011/08/14

モロン回想

スペインから帰国して半年が経った。モロンでの生活もちょっと昔のことになりつつある。ブログの更新を怠けていたが、書こうと思っていたことを忘れないうちに少しずつ書いていこう、と3ケ月くらい前から考えていた。今日やっと実行。

モロンにいたのは今年の1月から2月まで。半年経ったので今はスペインも日本も夏だ。日本もかなり暑い。モロンの冬は寒かった。気温は日本ほど低くないと思うが、暖房機器が貧弱だから寒く感じる。建物が石でできているのも冷える原因かもしれない。アパートの部屋には最初小さなオイルヒーターだけだった。オイルヒーターは日本の自宅にもあり、その実力はわかっていたのでその効果はほとんど期待していなかった。予想通りだったので大家さんに頼んで電気ストーブを持ってきてもらった。それは所謂電熱器が大きくなったような感じのものだった。そういえば「ストーブ代わりの電熱器」なんていう歌詞があったっけ。でもそれはスペインではれっきとしたストーブなのでした。テーブルの下に置き、テーブルには布をかけて熱が逃げないようにする。ちょうど日本のコタツのようになる。私は部屋全体を暖めたかったので床にむき出しに置いて使っていた。これが結構暖かくて重宝した。というかそれがなかったら寒くて生活に支障をきたしたに違いない。大家さんも屋上のその部屋が寒いのを分かっていて、「3月になれば暖かくなるわよ。」と控えめに励まされたのを思い出した。


君と話し疲れて いつか黙り込んだ
ストーブ代わりの電熱器 赤く燃えていた

               森田童子「ぼくたちの失敗」より

2011/08/13

模拟电视的历史闭幕

模拟电视快停止
要买新的时髦的
囊中羞涩卖不起
果然仍然没问题

咄咄怪事

先月24日、アナログテレビ放送が終わった。うちではデジタルテレビに買い替えてなかった。アナログ放送が終わる1,2カ月前から、テレビの画面には「アナログ放送終了まであと~日」という、プロ野球のスコアやボールカウントの表示を隠す邪魔っけなお知らせが張り付いていた。「しょうがないのでデジタルテレビを買いに行くか」と思っていたが、どうせならアナログ放送の終わりを見届けようと24日の正午前、カメラを構えてテレビの前に座って歴史的瞬間が来るのを待っていた。12時を過ぎた。まだ映っている???そして画面右上には「デジアナ」という表示が。「深夜0時に電波を停止します」といったテロップが出た。ごめん、明日は仕事だからその時間までは付き合えないよ。翌朝起きてテレビをつける。砂嵐の画面を予想したが…まだみのもんたが映ってるー。もしやうちのテレビこわれちゃったのかな?会社で同僚にこのことを話すと、「UHFアンテナがあればデジタル信号をアナログ信号に変換して見られる放送はしばらく続く」とのこと。うちはマンションでUHFの集合アンテナがあるから見られるということか。あと4年くらいはこの所謂「デジアナ」は続くそうだ。理屈はよくわからないが、ともかく焦ってテレビを買わなくてよかった。それにしても関係機関は闇雲にテレビの買い替えを煽るのではなく、そこのところをちゃんと知らせてほしかったね。


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